高橋源一郎さんの新刊のタイトルは「ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた」となっています。
これを見て僕は「おっ」と思ったのですが、何故そう思ったかというと、松岡圭祐さんの歴史物に関して浮かんだイメージと同じイメージを含んでいると思ったからです。
僕は松岡圭祐さんの本では、「水鏡推理」を6冊読んだのですが、歴史物はまだ読んでいません。
「水鏡推理」では、型破りの事務官が清新な意思行動で役所特有の歪みを正す話でしたので、好印象を持っていたのですが、歴史物はなぜか大日本帝国の時代を扱っており、愛国的に見えるテーマが取り上げられており、僕としてはちょっと危惧を抱くところがあります。
しかし改めて考えると、国家神道の復活を目指す勢力が主張する愛国心とは別に、清新な愛国心も存在していたと言えるでしょう。
NHKテレビの「電子立国日本の自叙伝」や「プロジェクトX」などが指し示しているのも、排外主義的で空想的な愛国心とは異なる、もう少し健康的な愛国心かもしれません。
「黄砂の籠城」は義和団事件の時に、外国軍の連合軍に参加した日本軍の責任者の話だそうです。この時期の日本軍は国際法を遵守する意思を持った軍隊でした。
赤松小三郎の功績を紹介した関良基さんは、初期の指導的な日本軍人の中には、赤松小三郎の弟子が少なからず存在したということを言っています。しかし赤松小三郎本人は、早い段階で暗殺されてしまったので、弟子には限りがあるわけです。弟子がさらに弟子を育てることもできず、近代的な精神で貫かれた軍人の系統は、その後、しぼんでいったと考えられます。単純にこれが日本軍が、合理主義を捨て精神主義に走った理由のような気がします。
松岡さんが取り上げているのは、赤松小三郎の系統なのか、それに類する系統の、欧米近代の何らかの理想主義に感銘を受けた人が、気高い行動を見せた話でしょう。
これは玉砕の精神とは別の精神です。
そして「八月十五日に吹く風」では、アリューシャン列島のキスカ島の守備戦がテーマになっています。アッツ島では玉砕が行われたらしいのですが、キスカ島では、人命を最大限尊重した戦いが繰り広げられたそうです。
松岡さんは、玉砕しなかった例外的な作戦を取り上げています。
また「シャーロック・ホームズ対伊藤博文」では、大津事件を取り上げています。これはロシアの皇太子の暗殺未遂事件です。
コナン・ドイルは、ホームズの物語に幕引きするためにホームズが死んだ話を書いたのですが、その後、要望に応えて、死んだと思われていたのは間違いで、実はアジアに行っていたという書き出しで、新しい話を書いていたので、その間に何をしていたのかを語る物語が成立する余地があります。
そして松岡さんは、ホームズは日本に来ていたという話を書いたわけですが、時代設定が決まっているので、大津事件とかその辺りにあった事件を取り上げざるを得ないわけです。
ここでつじつま合わせのために、今の時代に日本語圏の人たちが読むべきこととは違う物語になってしまったとしたら、単なるエンターテインメント小説になってしまうところですが、実はそうではなく、ちゃんと必要性を考慮して書かれているのだと思います。
伊藤博文を出してくることで、新国家建設に対して、清新な思いを持っていた日本人の姿を描くことができているのではないでしょうか。
戦後の日本で、道徳衝動の源泉になっていたのは、主として戦争の被害体験でした。しかし幕末から明治初期にかけては、それとは別の清新な精神的源泉があったでしょう。それは新国家建設の意思だったと思います。
これは戦後の時点でも、一部取り戻され、平和国家建設の意志として現れたと思います。
近年、平和国家日本は表半分の姿であり、米軍占領の日本という裏半分の姿を無視して成り立っていることが重く見られています。
表半分を強調することは、裏半分を覆い隠すことになるので、表半分は幻想だ、と言うことが、今では必要な言説と考えられています。
しかしながら、やはり表半分もいくらかは真実だったのであり、戦後の平和国家建設の意志も、幕末から明治初期の新国家建設の意志も、完全に嘘とは言えないところがあります。
司馬遼太郎さんも、幕末から明治初期の新国家建設の意志を描いたのだと思いますが、最近の認識では、江戸幕府の健全さを覆い隠したり、その後の帝国主義的膨張の愚を覆い隠すという観点から、人々の目を曇らせるように働いていると批判することが多くなっています。
松岡さんの作品も、司馬さんのやった仕事に、さらに積み上げるような作品であると、言えなくもありません。素晴らしいところだけに目を向けて、ダメだったところには目を向けていないわけですから。
本当に必要なことは、江戸幕府が成立してから、明治の革命が起き、帝国主義的膨張の後で、大敗北を喫し、占領されて今に至る流れを、解説することだと思います。つまり、どんな経緯で今に至るかを知ることです。
それ以外では、司馬さんとか松岡さんのように、愛国心は愛国心でも、健康的な愛国心を喚起する物語を提供することは、多少マシな試みです。玉砕を美化するものや、排外主義に燃えているものが既にあるわけですから、それよりマシなものを出すことは、それなりに意味があるでしょう。
人類史のプロセスを見ると、おそらく今は、個人主義を発達させることで、新しい人間関係、新しい共同体を模索する段階にあると思うのですが、それより遅れていて、古い共同体に集うことに親近感を抱いている人が多いのだとすると、共同体の栄光に熱狂する余り自滅することも良しとする考えよりは、共同体が末長く続くように冷静にコントロールする考えを提供する方がマシです。
「生きている理由」は、清朝の皇女の話で、「ヒトラーの試写室」は日本とドイツで戦意高揚映画を作る話です。この二つについては、今の時代とどう結びつくのか、いまいちわかりません。
高橋さんの、「ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた」は、説明してきた観点から見ると、国家神道の信奉者の国の愛し方はわかった、こっちはこっちでこういうふうに国を愛する、ということに見えます。
国家神道の信奉者の側では、我々の愛国心が唯一の愛国心であり、そうでないものは存在するはずがないという姿勢を取っています。それに対して、そんなことはなく、我々の愛国心は別に存在すると主張しているように聞こえます。
国家主義に対抗する、自由主義や人権主義は、個々の人たち、特に痛めつけられている人、損なわれている人に目を向け、彼らを救い出すか、慰めを与えることを目標にしています。
しかしそんなことを始めるとすぐさま、国家主義者と対立します。恵まれない人に施しをすると、国家を強化する資源が大幅に削られてしまう、というわけです。
自由主義者や人権主義者が活動しはじめると、すぐに強力で広範に存在する国家主義者と衝突するので、初期段階で押し問答になります。それで個人が成立した後に、個人がバラバラになり、互いに理解できなくなったり、共同生活が成り立たないという問題が見えなくなります。そんな危機的状況に向き合って、どうしたらいいかを考えることが必要なことなのですが、そこに行くまでに、大きな障害にぶつかって、先のことが想像できなくなっています。
高橋さんの本のタイトルは、「ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた」であり、国家主義とは別のやり方で共同体を形成するという意味に取ることができます。
内容紹介から窺い知れることでは、今、課題になっている個々の問題に、自分なりに答えを出したり、若者たちに自分で考えるように促す、という感じみたいです。
高橋さんは「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)を意識しているそうです。
「君たちはどう生きるか」は、大学に進学できる、恵まれた階級出身の若者に、エリートの責任を教える内容です。
社会主義的なグループのように、階級制を打破して平等を実現する方向には行かず、儒教の君主のように、階級制を維持しながら、人々の幸福を実現しようとします。
今の自民党政権は、地方の元地主や新興の商工者などの、特権階級が特権を維持するために、支持していると考えられます。
彼らは階級制を何が何でも維持したいと考えているわけではないと思うのですが、特権が少しずつ失われていく衰退のプロセスと、特権が前と同じように維持されるプロセスを比較すれば、大局観を持っていない人なら誰でも前者を選ぶということだと思います。
最近は、儒教の原典にあたる人が少なくなっているので、儒教的精神は存在していても質的に劣化しています。原典に触れないと、自己流の都合がいい解釈になってしまうからです。キリスト教のプロテスタントの経験から言えば、原典にあたっても、都合がいい解釈になることがわかりますが、原典にすらあたらないともっとひどくなるのだと思います。
それで人の上に立つ人の自覚は、以前よりも劣化していると思います。それほど悪意はなくても、大局観がなくなっていると思います。
悪意はむしろ既得権益を脅かす、新しい新興勢力の中にあります。彼らは、どこかに倫理感覚が残っているなら、それを抹殺することで、金に変えようとします。例えば、どこかで労働者の権利が保障されているなら、それを抹殺して、労賃の節減をはかり、それを利益として確保しようとします。
階級制を固定することによって秩序を維持しようとしている人は、そこまで容赦のない人ではないでしょう。階級制を壊すことで、自分たちが新しい特権階級になるための力を手にしようとしている人は、エリートの責任といった発想にまるでリアリティーを感じないでしょう。
エリートの責任を感じない人が、特権的な立場に立つと、共同体を破壊する方向に働きますし、エリートの責任をいくらかは感じている、古い特権階級が、特権的な立場を維持すると、自民党を支持することで、過去の栄光をいつまでも懐かしみ、今の時代に合わせた対応を考える人たちの邪魔になります。
今や、どちらにしても特権階級は破壊的な作用を及ぼします。
今、「君たちはどう生きるか」を書くなら、呼びかける対象は、少しでも能力がある人、少しでも資格がある人全員になるでしょう。良識は、階級とは関係なく点在するようになっているので、幅広く個々の人に向けて語りかけるしかありません。
基本的に最近は何もかもが解体のプロセスの中にあるので、良識ある階級というものは存在しなくなっています。それで個々の人があの世から持ってくる善良さしか頼れるものがないのだと思います。
一方、実際の世界で政治家の発言を聞いていると、随分遅れていると感じます。それには理由があって、まず彼らは言論を戦わせて、ある考え、ある見通しを、他の人たちに納得させる仕事をしているのであり、それだけで手一杯であるということです。自分で新たに考えを導き出すことは、余った時間にするしかなく、基本的に思想家とは分業しています。
そしてまた、彼らは、もっとずっと遅れた考えを持っている人、まだ自分自身が思想の受け皿としては穴だらけの状態の人と話をして説得する仕事も担当しています。大勢の遅れた人をまとめ上げる仕事をしていると、ますます思想家にはなれなくなります。
それゆえ、思想家や思想実践者は政治家もっと先に行っていなければなりません。
今の日本では、政治家のように、人を説得したり、別の言論とぶつかり合う仕事ができる人が不足していて、既にできた流れに乗っていく人ばかりになっているので、学者までもが政治家の役割を買って出るようになっています。
そういうこともあって、大きな権限を持つ組織の中で方針をめぐって争う中では、優れた考えが勝つことが稀になっています。
そうなると、余計に、権限はあまりなくても、先を考えたり、できることから実践していく動きが重要になるはずです。
計画の全貌を提示してみせたり、実際に実現した姿の一部を目に見える形で示すことは、人を説得する上でも重要なことになります。
それで大勢とは別に、自分たちはこう考える、自分たちはこうする、という決意表明に意味を感じるわけです。
何を信じたらいいか、分からない?みんな、そうさ吉野源三郎 | そうれ!コミックCRYSTAL(5000円(税抜)コース)のいろいろ